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遺跡の特徴 大塚・大塚町遺跡は文京区小日向四丁目から大塚二丁目に所在し、小日向台地上に立地しています。発掘調査は、現春日通りの道路拡幅事業に伴うため、調査範囲の幅は狭いですが、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から不忍通りとの交差点まで延びています。江戸復元図を見ると、江戸時代、旗本屋敷地と磐城平藩安藤家下屋敷・年貢町屋があったところです。
江戸復元図(東京都教育委員会作成)と調査範囲(赤塗部分)
境界溝断面
大塚道(現春日通り)と安藤下屋敷の境界溝
大塚弾薬庫の土塁塀の整地と同時に埋設されたソケット付き常滑産土管(明治20〜30年代)
トピックス 今回は、磐城平藩安藤家下屋敷に相当するお茶の水女子大構内の発掘地点の成果をご紹介します。 磐城平藩安藤家は幕末まで12代続く譜代大名で、最終的な石高は5万石ですが、老中職を輩出した家格です。10代安藤信正は、老中首座として公武合体を進め、水戸浪士ら尊王攘夷派に襲撃された「坂下門外の変」でよく知られています。 江戸時代の絵図、寛永江戸全図(1642〜1643)には2代藩主右京進重長の名が見られることから、大塚の地に安藤家の下屋敷が拝領されたのは江戸初期に遡り、以後幕末まで続きます。下屋敷は、大名の公的活動の拠点である「上屋敷」と異なり、大名の私的空間(別荘)です。 明治になると、安藤家下屋敷の跡地はそのまま陸軍用地になり、明治13年陸軍病馬厩、明治23年大塚陸軍弾薬庫、明治41年東京陸軍兵器支廠と変遷し、昭和7年に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)が移転してくると、本調査地点は学校に組み込まれず、陸軍憲兵大塚分遣隊が置かれます。 本調査では、東京陸軍兵器支廠のレンガ塀を壊して造られた、大塚分遣隊のコンクリート塀の基礎跡が検出され、さらにその下に大塚陸軍弾薬庫の土塁塀の整地層が厚く堆積していることがわかりました。これらの近代遺構は、江戸時代の安藤家下屋敷の外郭を示すと思われ、実際にその真下から安藤家下屋敷の境界溝が確認されました。境界溝は、現況(お茶の水女子大学の敷地と歩道の境)と一致しています。この事実は、明治43年〜45年に東京市電(路面電車)が敷設された際、大塚道は道の反対側に拡幅されたことを意味し、現春日通り4車線の内、調査区側2車線が江戸時代の大塚道に相当することが確認できました。本地域の屋敷境を考える上で、貴重な発見となりました。
平成21年10月現在