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トピックス 調査は平成19年12月より準備を行い、平成20年1月より本格的な発掘調査を開始しました。道路建設のため、調査区は幅約30m、長さ約270mと東西に長い形で、面積約8,500m2あります。発掘調査は10月で終了し、現在は現場事務所にて整理作業を行ない、報告書作成の準備として、土器や石器の実測、図面や写真の配置構成を考えています。
前回は中世以降の板碑(いたび)や焼骨(しょうこつ)を伴う集石遺構(しゅうせきいこう)と、旧戸吹村と旧宮下村の境界をなす境堀(さかいぼり)の伝承のある、大規模な溝状遺構を紹介しました。その後、集石遺構から出土した焼骨は、独立行政法人国立科学博物館の鑑定により、成人の男性が800度以上の熱で焼かれたことが判明しました。
さて、今回は謎の遺構を紹介します。調査時はSK24遺構として調査していました。遺構(写真1)は、斜面地に位置し、斜面上側を削平し平坦面を作り、中に柱穴が掘られていました。調査後、この不明土坑をとく鍵の一端が見つかりました。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』のうち「宮下村」の「神社」の項目には上記(資料1)のような記載があります。
これによると、宮下村の西南に位置する字鶴巻(鶴舞か)の山の下に熊野社(くまのしゃ)があり、名主(なぬし)の杢右衛門(もくうえもん)が所有の字日蔭(ひかげ)の鎮守(ちんじゅ)であることがわかります。さらに熊野社は、税金が免除される除地(じょち)で、約5.4m四方の敷地をもち、社本体は上屋の規模が約1.8mと2.1mあまりで、建物の向きが南東を向くこと、中に小祠(しょうし:ほこら)があることがわかります。名主杢右衛門は現在の飯室家に続く家系です。今回の発掘は飯室家所有の裏山でした。
SK24は底面に貼り床状硬化面が認められ、柱穴が7穴ありました。これら柱穴群の規模は、まさに文献の記載どおり長軸で2.1m、短軸で1.8m、軸方向は南東(巽 たつみ)向きです。本遺構は、江戸時代後期に実在した熊野社の可能性が高まってきました。しかし、残念ながら、時期を決めるような焼き物などは出土していません。文献記載と発掘調査が一致するようにも見えますが、まだまだ証明すべき点がたくさん残されています。
現在、江戸時代の掘立柱神社建築についての発掘事例を調べ、類例がないか探しているところです。
平成21年4月現在
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