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本遺跡は北区中里三丁目、田端六丁目、上中里一丁目、西ヶ原一丁目にまたがる、21万m2にも及ぶ大規模な遺跡(北区No.40遺跡)です。台地上に位置し、縄文・弥生・古墳時代・奈良時代・平安時代・江戸時代にかけての複合遺跡です。台地の北東下には中里遺跡と国指定史跡中里貝塚が位置します。また、古代の役所である武蔵国豊島郡衙(ぐんが)跡に隣接することから、遺跡の中心は古墳時代の後半頃から奈良時代・平安時代にかけてとなります。 なお、遺跡名の峽上(はけうえ)の「峽(はけ)」は崖(がけ)の意味です。
規模は約9.4m×9.1m四方 (広さは約85m2、約52畳の広さ)
トピックス 前回は奈良時代の竪穴住居跡と駿河の土器を紹介しました。 今回は古墳時代後期(7世紀)の5号竪穴住居跡を紹介いたします。 写真1は住居跡の全景写真です。前回報告の奈良時代の6号住居跡と中世以降の削平面に一部壊され、弥生時代の11号住居跡を壊して作られていました。なんと言ってものこの住居跡の特徴は、大形であることです。通常の住居の4から5倍の面積があります。北区内でも最大級となる住居跡です。大形住居については有力者のすまい説や共同の集会所説などがあります。 次いでこの住居跡を特徴付けているのは、これも大きなカマド(写真2)と大きくて深い柱穴(写真3)です。カマドは粘土で作られますが、煮炊きの甕をさかさまとし、カマドの構築材に転用していることが判明しています。また、カマドのたき口付近からは甕が潰れて出土しています。どうやら意図的に壊しているようです。 柱穴の方でも大きな成果がありました。住居を解体し柱を抜き取っていることがわかりました。解体に際して、柱が太くて抜けないために、柱の穴の周りを掘り下げ、柱を倒す方向に傾斜をつけた溝を掘り、柱を倒したようです。また、掘った土も穴の周りに盛り上げてありました。 この他にもこの大形住居跡からは調査で多数の情報が得られました。 住居跡の発掘成果をまとめますと、大形住居は上屋が解体され、柱も抜き取られ、カマドが壊され、さらに火がかけられていました。窪地となった竪穴住居跡には割れた土器などのゴミが捨てられ、その後途中まで人為的に埋め戻されたことが判明しています。また、この大形住居は最初から大きく作られたのではなく、一回り小さな住居跡を建替えて大きくしたこともわかりました。
平成22年3月現在