2020年東京オリンピック競技大会を見据えて

世界で活躍するアスリートの育成に向けたスポーツ医・科学的サポートの可能性

コーチが変われば環境が変わり 環境が変われば選手が変わる。 〜指導者のあるべき姿とは〜

2017/02/13

伊藤 雅充

選手が学んで理解したとき
初めてコーチは教えたと言える。

名声や評価を得たいがためのエゴに取りつかれた情熱が選手をつぶす。

コーチングに王道はなくとも、伊藤氏は理想とするひとつのコーチ像を掲げている。それは「アスリート・センタード・コーチング」である。常にアスリートを中心に置いたコーチングであり、コーチは教えることへの情熱を持っていることが求められる。すなわち、情熱があればコーチに向き不向きはないという。
ただし、情熱は曲者でもある。コーチが自分自身の名声や評価を得たいがためのエゴに取りつかれた情熱もあるからだ。これを執着的情熱(オブセッシブ・パッション)と言い、行き過ぎれば選手の存在を無視した独裁者になってしまう。
アスリート・センタード・コーチングに求められる情熱は、選手とコーチがお互いを尊重、信頼し合ってよく話し合い、さらなる向上を目指して共に努力する調和的情熱(ハーモニアス・パッション)だ。

「体罰が問題になることがありますが、体罰もパッションがなければできないわけです。そもそも、選手に手が届くところに日々立ち続けているからそれが起こるわけで、そのパッションたるやすさまじいものを感じます。ただ否定するだけで、そのパッションを失ってしまっては、日本のスポーツはダメになってしまいます。問題は、本来、選手のパッションを引き出すべきなのに、コーチのパッションが行き過ぎてしまい、選手のパッションを消してしまっていることです。大事なのはパッションをどこに向けるか、どう調和的情熱に結びつけるかです」

長年の間に形成された文化も影響していると言う。ガツンと上から押さえつけるスパルタ式の厳しい指導が選手を鍛え、精神力を強くするのだという文化が日本には根強くある。文化は重力と同じで、その存在を意識しなければ、疑問に思うことなく流れに従ってしまう。そこにくさびを打ち込み、スポーツ科学の観点から理想のコーチングを追究するのがコーチング学であり、そのひとつの答えがアスリート・センタード・コーチングというわけだ。

アスリート・センタード・コーチングの本質、それは〈学び〉を理解すること。

では、アスリート・センタード・コーチングの本質とは何か。それは〈学び〉を理解することだと伊藤氏は言う。これを理解していなければ、教えることへの情熱は空回りしかねない。

「私たちは〈教える〉ということの本当の意味をけっこう履き違えているんです。教えるという行為は、相手がいい方向に学んでいったときに初めて教えたと言えるのであって、例えば教師が黒板に大事なところを書いて解説しても、子どもたちが理解していなければ教えたとは言えません。単に文字を書いてしゃべっただけなんです。だから私たちは〈教える〉ということを、選手が〈学ぶ〉ためには、という観点から考えなくてはなりません。だからこそ選手のことを知らなければいけないし、だからこそオープンクエスチョンで彼らが何を考えているのかを知り、次の手を用意しなければいけません」

そして伊藤氏は、そもそも、なぜあなたはコーチになったのですかと問いかける。

「コーチになりたいと思った最初の気持ちを振り返ると、どんなコーチであれ、子どもたちのために何かしたい、子どもたちのためにいい影響を与えたい、という思いがあったはずなんです。それがいつの間にか、自分の立場や評価といった別の目的にすり替わっているかもしれない。だとしたら、一方的に教えてばかりで、選手にネガティブな影響を与えているかもしれません。もしそうであれば、コーチは選手にとって害でしかありません」

気をつけなければならないのは、叱責したり、手をあげたりして指導されたとしても、選手がそれを後から振り返ったときに「あの厳しい指導があったから自分は成長できたんだ」と肯定してしまうこと。人間というのは自己防衛反応で、今の自分につながる過去をなかなか否定できない。

「そんな声をもって自分のコーチングは正しかったと主張するのは間違いです。怒られたり、叩かれたりしなかったらどうなっていたか、比較できないからです。だからこそ、コーチング学の研究成果などを吟味しながら、今の自分がやっていることは本当に正しいのか、何のためにコーチをやっているのかを考えてほしいのです」