東京2020オリンピック・
パラリンピック競技大会を終えて

世界で活躍するアスリートの育成に向けた
スポーツ医・科学的サポートの可能性

2022/09/02

心の状態を正しく認識することが、 パフォーマンスの向上につながる。 〜メンタルフィットネスで選手のこころを守る〜

心の状態を正しく認識することが、 パフォーマンスの向上につながる。 〜メンタルフィットネスで選手のこころを守る〜

アスリートは競技レベルにかかわらず、日々の厳しい練習、私生活でのコンディション管理、試合での緊張感、周りからの期待など、並々ならぬプレッシャーを感じている。そんなストレスとうまく向き合い、パフォーマンスを向上させていくサポートをするために発足したのが「よわいはつよいプロジェクト」だ。その中心人物である研究者の小塩靖崇氏と現役ラグビー選手の川村慎氏に、発足に至った経緯や、実際の活動を通じて見えてきた日本のスポーツ界におけるメンタルヘルス事情、今後の課題について聞いた。

小塩 靖崇                         川村 慎

小塩 靖崇                         川村 慎(※読み仮名は下記のとおり)

国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 地域精神保健・法制度研究部 研究員 (小塩氏)                                                                  日本ラグビーフットボール選手会 前会長 横浜キヤノンイーグルス ラグビー選手(川村氏) 

◆ 小塩 靖崇 (おじお やすたか)◆ ※写真左側                                                                                        1987年、岐阜県生まれ。2009年三重大医学部看護学科卒。17年東大大学院教育学研究科身体教育学コース修了。博士(教育学)。専門は心の健康・メンタルヘルス。20年より現職。若年層が健康かつ幸せに育つ社会を目指してさまざまな取り組みを行うなかで、アスリートのメンタルヘルス課題のメッセージを発信する「よわいはつよいプロジェクト」の立ち上げに尽力。現在も心の専門家・研究者として、アスリートへのメンタルヘルス支援策の開発と実装、論文やコラム執筆などにより研究と実践の橋渡しを行っている。                        ◆ 川村 慎 (かわむら しん)◆ ※写真右側                                                                                1987年、東京都生まれ。小学生のときに香港ラグビーフットボールクラブでラグビーを始める。慶應義塾高等学校時代にはU17日本代表候補に選出。2006年、慶應義塾體育會蹴球部に入部。10年、同大学卒。同年4月に博報堂DYメディアパートナーズに入社するも、ラグビー選手として復帰するため8月に退社し、ジャパンラグビートップリーグのNECグリーンロケッツ(現・NECグリーンロケッツ東葛)に加入。20年、日本ラグビーフットボール選手会会長に就任。22年、横浜キヤノンイーグルスに加入。ポジションはフッカー。

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日本におけるアスリートのメンタルヘルスケア体制を整える。

弱さを認めることで本当の強さが生まれる

「強くて勇猛果敢」「どんな逆境にも負けない」。世間の多くの人が、アスリートに対してこんなイメージを持っているだろう。

「実際はというと、こうしたイメージに疲弊してしまう選手は少なくありません」と話すのは、現役ラグビー選手で日本ラグビーフットボール選手会(以下、選手会)前会長の川村慎氏だ。「こうしたイメージそのものが悪いわけではありませんが、『強くなければいけない』というプレッシャーが、時にアスリートにとってマイナスに作用してしまうことを知ってほしい」

近年、スポーツ選手のメンタルヘルスは国際的な関心事になっている。著名な選手が自身のメンタル不調を告白するケースが増え、また、国際オリンピック委員会(IOC)はアスリートのメンタルヘルス支援を強化するようになった。しかし、日本のスポーツ界ではメンタルヘルスケアへの理解が十分に進んでいない。こうした現状を変えるために、選手会が中心となり、国立精神・神経医療研究センターとともに「よわいはつよいプロジェクト」を2020年に発足させた。

「第三者ではなく、スポーツ界およびアスリートから発信することに大きな意義があると考えています。このプロジェクトでは、アスリートが心の不調と向き合う姿をあえてオープンにすることで、アスリートのみならず日本社会全体で精神疾患に関する偏見や圧力を緩和し、治療することを自然に受け入れられる環境をつくっていきたいと思っています」(川村氏)

スポーツ界、アスリートがメンタルヘルスの専門家と手を組む

このプロジェクトの大きなポイントは、アスリートとメンタルヘルスに関する専門家が手を組んでいることだ。発足当時を、川村氏はこう振り返る。

「もともと、選手会のなかで『海外に比べて、日本ではアスリートのメンタルヘルスに対する取り組みが少ない。今後はもっと必要になるはずだ』という意識が高まっていたんです。ただ、トップリーグで活躍している選手たちからは「心のケアなんて必要ない」と一蹴されてしまうことが多かった。何かできることがないかと考える日々が続いていました」

そんな時に紹介されたのが、国立精神・神経医療研究センター 研究員の小塩靖崇氏だった。小塩氏の専門は健康教育で、特に力を入れて研究しているのが若者のメンタルヘルス支援。これ以上にふさわしい人はいなかった。

「選手会の方々とお会いして話を聞くうちに、アスリートにおけるメンタルフィットネスの向上が喫緊の課題であると強く感じました。メンタルフィットネスとは、『心の状態を正しく認識し、柔軟に対応する⼒』のことです。アスリートだからといって常に強くいる必要はないし、人間なのだから、弱い部分もあって当然なのです。だから、まずは自分の弱い部分を受け入れるところから始めて、対応していくこと。これこそが真の『強さ』につながると一人でも多くの人に伝えていきたいと感じました」(小塩氏)

小塩氏はさらに、こう続ける。

「弱さを受け入れることと同じくらい大切なのが、自分の気持ちや想いを外に出すこと。このプロジェクトを通じて、誰もが悩みや不安を伝えやすい、心のつながりを感じられる世の中をつくっていきたいと考えています」

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アスリートにおけるメンタルヘルスの現状。

アスリートの2.4人に1人がなんらかの心の不調を感じている

小塩氏はプロジェクト発足にあたり、アスリートのメンタルヘルスの実態を把握するための調査(※)を実施した。すると、2.4人に1人の割合(42%)で何らかのメンタルヘルス不調を経験しており、10人に1人(10%)は、うつ・不安障害の疑いあるいは重度のうつ・不安障害が疑われる状態であることがわかった。また、ラグビー選手ではうつ傾向が強い人ほど他者に相談しようとしないことや、メンタルヘルスに関する知識の程度と自身の不調時の相談行動には相関がないことを示唆する結果も出た。

「日本は、心身の不調が出たときに、自分で『●●科で受診しよう』と動かないといけない。たとえば怪我をしたら整形外科に行くし、心のケアがひつようなときは精神科に行く。私たちが課題に感じているのは、その間がないことです。なぜなら、自分が不調のときほど、自分は何に困ってるのかわからなくなるものだからです」

たとえば、うつ状態等のまさに重い症状で苦しんでいる時に自分で『精神科に行かなきゃ』と動けるケースは少ない。周囲の人間の助けがあって受診につながることがほとんどだという。病院に行く手前で、もっとアプローチができないかというのが、小塩氏の主張だ。

「大切なのは、身近に話せる人がいること。いつも自分のことを知ってくれている人がいて、その人たちから『なんか元気がないんじゃない?』と声をかけられたり、あるいは自分から『ちょっと聞いてほしいことがある』と気軽に話せるようになることで、小さな不調を改善できることもあります。そんな文化を、日本に醸成していかなくてはいけないと感じています」

※ジャパンラグビートップリーグ男性ラグビー選手(当時)233名が対象。時期は2019年12月~20年1月とし、ラグビー選手における心の不調への対処行動の特徴を明らかにした。

コミュニティの外の人に打ち明けることの大切さ

yowatsuyo_PDP_図.jpg小塩氏の言葉を受けて川村氏が強調するのが、『Player Development Program』(以下、PDP)の重要性だ。これは、選手の私生活上の問題やメンタルヘルス、引退後のキャリア構築などのサポート体制のことで、教育や金融・財産管理、契約理解などのフォローを目的としている。選手を支えるのはPDM(Player Development Managerの略)と呼ばれるサポート役で、チームに帯同しながら個別面談やグループワークで選手と対話を行っていくのである。

「ラグビー大国のニュージーランドやオーストラリアではPDPが充実しています。というのも、彼らはメンタルフィットネスがパフォーマンスに与える影響は重大だということをよく理解しているから。日本にも同じ価値観を浸透させていきたいと思っています」

話し相手にふさわしいのは、「程よい距離」のある人。川村氏はこうも続ける。

「たとえば、チームメイトには話しにくいことでも、寮の食堂の職員さんに『最近、なんか調子悪いんだよね』と気軽に打ち明けられたりすることもある。まずは、そういう簡単なところから始められればいいんです。僕の実体験でいうと、たとえば、小塩さんに不安や悩みを含めてざっくばらんに話します。小塩さんはメンタルケアのことは詳しいけど、ラグビーの細かいプレーのことや、選手の名前のことはそこまで詳しくない。だからこそ、素直に打ち明けやすいこともある。会社での悩みは、同僚や上司より別の職場の友人の方が話しやすいですよね。それと同じ感覚です」

特にアスリートは、小さな不調が試合の出場の可否に影響を及ぼし、それが次の期の契約や収入に直結することさえあるため、悩みや不調を打ち明けにくいと感じる人が多い。

「僕たちは『一定の利害関係がない人』という表現をしているんですけど、そういう相手って本当に限られてくるんですよ。チームメイト、監督コーチは近すぎる。家族でさえも、自分の契約を打ち切られたら被害を被る人たちなので、あんまり打ち明けられないですよね。なぜなら、それ言ったときにどういうリアクションをされるか、すごく気になってしまう間柄ですから。もちろんそうではない関係性を保っている方もいらっしゃると思うんですけど、多くの場合はそういう利害関係がある人に囲まれている場合が多い。そんなときにPDPの効果が発揮されるのです」

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アスリートとしての自分の体験がプロジェクトに生かされている。

川村氏の「何をしてもうまくいかなかった時代」

 川村氏自身も、かつて心の不調が競技のパフォーマンスを低下させていた時期を経験したことがあるという。社会人選手になって4、5年目のときのことだ。ずっと最前線にいた川村氏にいわゆる「スランプ」がおとずれ、試合に出られなかったり、あるいは、後半から出たりたまにスタメンで出たりしても一番手になれなかったりする苦しい状態になってしまった。トレーニングを強化したりもしたが、心の中ではライバルに対して「何であいつが試合に出られるのに自分は出られないんだ」「ケガをしてしまえばいいのに」と負の感情を抱くようになっていた。

「その時期は、ラグビーをやっていることさえつらくなっていました。でも、人に話さなかったんですよね。すごく悔しいし、人に言うことじゃないと思っていたので、内側にこもっていたんです。いま振り返ると、こもればこもるほど負のスパイラルに陥って、どんどん精神的に追い込まれてしまっていたんだと思います」(川村氏)

「話す」ことで負のスパイラルから抜けだせた

ふと、人前で本音がこぼれた瞬間に、状況が一転したという。

「弱音を吐くのは恥ずかしい、みっともないとずっと思っていたんだけど、つい『こんなに頑張っているのにな』という言葉がポロッと出てしまった瞬間があったんです。すると、周囲の人が『ここはできてるよ』とか、『いいところもある』と言ってくれたんですよね。クリティカルなアドバイスはなかったんだけど、でも、自分の気の持ちようが変わったんです。今思えば、それまでの自分は相談の仕方がわからなかったんでしょうね。人に話すようなことじゃないと思い込んでいたんだけど、大事なのは具体的なアドバイスをもらうことではなくて、人に話したり自分の気持ちを言語化したりする過程の中で、自分の状況を可視化していくことだったんです。しかも、話すことで仲間や味方が増えていく手応えもあった。今は、話すことが重要だと感じています」

だが、すべてのアスリートに「対話」「相談」を強制するわけでない。それらを選択肢のひとつとして選手の前に用意しておく環境を整えていきたいと、川村氏は話す。選ぶか選ばないかは選手の自由だ。

「大事なのは、その方法が合う人と合わない人が一定数必ずいるということ。ひたすらトレーニングすることが向いている人もいます。まずは不調を感じた時の選択肢のひとつとして『相談』してみて、それにより自分の状況が変わるかどうか試してみてほしい。合わなかったら続けなくていいんです。大切なのは、自分にはどの方法が合っているのかを選手自身が把握することですから」(川村氏)

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心の専門家から見たアスリートの現状。

精神疾患に対する偏見をなくす

 ところで、看護学科出身の小塩氏が健康教育に関心をもつようになったのは、医療の現場で精神疾患を持つがん患者に出会ったことだった。この患者を通じて、日本では精神疾患に対する偏見が強いことを痛感したという。

「ある患者さん本人から『精神疾患を持っているとなかなか入院させてもらえないんです』や『治療を受けられないんです』と聞いたときには、とてもショックを受けました。なぜなら、医療とは崇高なものですべての人に平等に提供されているものだと、ずっと教科書で学んできたから。精神疾患があるという理由で医療を受けられないケースがあるなんて信じられなくて図書館で調べ始めてみると、患者さんの言葉を裏付ける論文がたくさん出ていることを知りました。精神疾患を抱えている人が差別を受けて、偏見の対象になっているというのは、確かに医療現場の課題になっていたんです」

自分にできることはないだろうか。小塩氏はいてもたってもいられず、精神科へと転属し、猛勉強を始めた。

「研究するうちに、心に不調や病を抱える人というのはこういうものだ、という偏見があまりにも強いことがますますわかり、これは教育から変えなくてはいけないと思うようになりました」

縁あって保健体育の教科書の改編や教材の制作に携わるようになり、やがて、日本ではアスリートのメンタルヘルスが課題になっていながら、ほとんど着手されていないということを小塩氏は知ることになる。

「自分の研究の範囲を広げるためにもアスリートの現状を知ることができないかと考えていた流れで、選手会の方々との出会いにつながったのです」

アスリート版『心のチェックシート』

 現在、小塩氏はIOCが2021年5月に公開したメンタルヘルス支援策「IOC Mental health in elite athletes toolkit」の翻訳を進めている。このツールキットにはいくつかの目的がある。まずは「うつ状態・うつ病」「パニック障害・不安障害」「摂食障害」「睡眠障害」「適応障害」「オーバートレーニング症候群」「燃え尽き症候群」「希死念慮(死にたいと思う気持ち)」といった主な症状にあてはまるかどうかをチェックすること。次は教科書的な要素として、アスリートがさまざまなストレス要因からこうした症状が起きやすいことを解説すること。そして、医療スタッフ以外のメンバーがこれらの症状に対してどのようにアプローチできるかを紹介することだ。

「これは海外の選手向けにつくられたツールキットの翻訳版です。今後は、これを参考にして、日本人の傾向や心身の特徴に合わせて、ちゃんと日本人が使えるツールキットを開発する予定です。(2022年7月時点)」

ただ、小塩氏もまた、川村氏と同様に対話することの重要性を強調する。

「そもそも、このツールキットを使って自主的にチェックできるアスリートは、その段階でセルフコントロールができているんです。本当に必要なのは、心のセルフコントロールの方法を確立していない人。それに、『なんだか不調だけど、どうして不調だかわからない』って不安を抱えている人は、川村さんが言うように人と会話する中で自分の状態に気づけることが多い。だから、ツールも選択肢のひとつとして用意しておくけれど、アスリート本人にはやはりコミュニケーションを大切にする意識を持ってほしいです。このツールは、マネジメント層が選手の状況を把握するために役立ててほしい。その両輪がうまくまわるようになったときに、ツールキットが機能してくるはずです」

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コロナ禍の今だからこそ心がけたいこと。

まずは自分の不安を受け入れる

コロナ禍となり3年目となった今年、アスリートはどのように過ごしていて、また、指導者は今後どのような行動をとっていくべきなのだろうか。現在の状況を川村氏はこう解説する。

「練習方法や、プライベートの過ごし方も含めて、全体として大きな変化が求められてきました。また、感染の状況など時期によって細々とした変化を繰り返していますよね。そのひとつひとつに適応しないといけないので、選手も指導者も大きな負担を感じていることは確かです。しかも人に会わない、飲みに行かない、など、さまざまなことで自粛を求められているストレスフルな状況です。毎週必ずPCR検査を受けなくてはいけないことも、相当なプレッシャーに違いありません」

そのうえで、指導者に対してこんな提案をする。

「そこで大切なのが、不安を受け入れることです。『感染するような行動は自粛するように』と指示するばかりではなく、指導者が自ら『PCR検査、不安だよね』と打ち明けてみてはどうでしょうか。そうすることにより、選手の負担も軽くなり『みんな不安なんだな』、と自分の不安を認めやすくなりますから」

仲間を増やしていきたい

いくら『相談しよう』『不安を打ち明けよう』と研究者が呼びかけても、そう簡単に広まるものではない。「よわいはつよいプロジェクト」を通じて川村氏をはじめとする現役アスリートや元アスリートが実体験とともに発信していくことで、その効果は増す。それよりもさらに加速させてくれるのは、アスリートや指導者が実際に行動に移すことにほかならない。

「スポーツ業界として必要な変化ですし、ひいては社会的にこうしたムーブメントをおこしたい」

と、小塩氏は今後の目標を語る。

「この運動は、絶対的に母数が必要だと思うんです。アスリートのメンタルヘルスが重要だという考えができる人が多くいないと、たとえ選手に『相談していいよ』と呼びかけても、相談できる人が誰もいないという状況になってしまいます。となると、誰も話さなくなりますよね。だから、話を聞ける人を増やしていかないといけない。日本でもアスリートの合宿や練習にPDMが帯同するようにしたいなど、制度の面としてアプローチしたいこともたくさんあります。しかし、まずは選手と指導者のみなさんに私たちの考えを知ってもらい、プロジェクトの仲間になってもらうことから始めていきたいですね」

参考

よわいはつよいプロジェクト

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